09.07

 

09.07

 



 




西ブロックに来てどれくらい経っただろうか。毎日、生きていくことで必死なこの土地で正確な時間なんてものは存在しないし、必要とする者もそういない。それは紫苑にも、ネズミにも言える話だった。
ここに来てから日付の感覚は少し曖昧になったけれど、それでも恐らく今日は9月7日で、それは紫苑が生まれた日でもあり、ネズミと出逢った大切な日でもあった。

「遅くなっちゃったなぁ……」

すっかり日が暮れ、橙色から青紫へと変わる空を見上げ帰宅を急ぐ。
今日は天気が良いから、と久々に犬洗いの仕事をしたのだ。最近は犬洗いの仕事ではなくにホテルの清掃や、犬の世話を中心にしていただけに犬洗いは久々で、紫苑自身もつい犬と戯れながら洗ってしまった為遅くなってしまったのだった。
きっとネズミはもうとっくに帰宅し、静かに読書でもしているのだろう。食材、買ってきてくれているといいんだけど。
——本当だったら、自分が用意して食べさせたかった。
自分にとって特別な日だからということもあるのだが、いつも世話になっている彼をもてなしたかったのだ。こんなご馳走、どうしたんだと驚かせたかったのだ。
時間を忘れ犬洗いに没頭していたことを少しだけ悔やみつつ地下部屋へ繋がる階段を降りていると、ふと、香ばしい香りがすることに気付く。嗅いだことのある香りに緩くなる口元を隠さず、勢いよく扉を開けた。

「ただいまー!」
「遅い」

待ちくたびれたとでも言うように紫苑の帰りを迎えるネズミに謝りつつも、部屋に広がる美味しげな香りを吸い込む。

「シチューなんて、食材揃えるの大変だっただろ」
「最近まともなもん食べてなかったら。今日市場に行ったら偶々安く手に入れられたんだよ」

もう出来たから、そこのテーブル片付けといて。と付け足すネズミに言われた通りテーブルの上に乱雑に置かれた本を退かし、夕食の準備をした。

「そっか。てっきり母さんの作ったシチューを思い出したのかと」
「ああ、アンタのママのか。あれは最高に美味いご馳走だった」

程よく煮込んだシチューを皿に盛り、紫苑に渡す。紫苑の分と自分の分をよそった後に付け合わせのパンを切り分け、ソファーに座った。
紫苑の食べる姿を見ながら思う。忘れるはずがないと。
あの台風の中で叫んでいたあの姿も、自分を見て驚きもしないあの目、少し興奮気味の紫苑に手術してもらったこと、渡してくれたココアの美味しさや、シチューと、それからチェリーパイ。
あの日は今目の前にいる紫苑の誕生日でもあれば、俺に生きる希望を与えてくれた日でも、同時に彼の人生を変えてしまった日でもある。
今日が紫苑の誕生日であることはきちんと把握して過ごしていた。普段は特に日付にこだわることもないので気にして生活をしないが、最近はきちんと、日付を気にして生活していた。
それなのに、まだ口にしていない祝福の言葉をいつ言おうかということばかりが頭の中を埋める。

「美味しかった! 久々にこんなに食べたよ。ご馳走さま」
「どーいたしまして」
「……本当はさ、今日は僕が作ろうと思ってたんだ。君に出逢えた大切な日だし」
「へぇ。ちゃんと日にちの把握してたんだ」
「まぁ、それくらいは」
「では、プレゼントは何がよろしいですか? 陛下」
「えっ、この料理だと思ってたんだけどいいの!?」

てゆうか、ネズミこそ僕が今日誕生日だってわかってたの!?と驚く紫苑に当たり前だろ、と笑って答えると面食らったような顔をさせ、ソファーにもたれた。

「なんだ。てっきり忘れてるのかと」
「朝何も言わなかったから?」

頷く紫苑に笑っていると少し睨まれたので「ごめん」と謝る。さっき、自分が夕食を作ろうとしていたと話していた辺り、どうやら紫苑は紫苑で何か考えていたのだろう。自分と出逢った日だから、と。それ以前に自分の誕生日だというのに。
わかりやすくも変わらない紫苑の態度に心を温かくさせながらも、彼に先程と同じように問う。

「陛下は何をお望みなのでしょう?」
「そんな、僕が欲しいものなんて決まってるだろ」

わかってる癖に、とでも言うかのような紫苑の態度に思わず笑ってしまう。いつでも変わらない彼の望みは真っ直ぐで、くすぐったいような気持ちにさせられる。

「明日の予定は?」
「? 特にないよ。イヌカシに「明日は仕事ないから来るな」って言われちゃったし」
「だろうな」
「え、知ってたの?」

数日前、イヌカシのところに「紫苑がもうすぐ誕生日だから、次の日を休みにしてやってほしい」と頼みに行ったのだ。「何故、誕生日当日ではなくその翌日なのか」、「お前がそんな事の為に動くなんて珍しい」と驚かれ、笑われはしたがイヌカシが紫苑に対し他の人間よりも良く思っていることを知っているだけに承諾させるのは簡単だった。
そんなことは絶対、紫苑に知らせるつもりはないのだけれど。

「まあ。俺も明日、劇団の仕事休みにしてもらったんだ」
「じゃあ」
「明日は一日陛下のワガママに付き合いますよ。……それでどう?」
「ネズミ……」

一年に一回くらい、甘やかしてやってもいいかと思って。そう付け加えると、「何だよ、それ」と笑う紫苑を見ていつもより数段、自分の機嫌が良いことに気付く。

「ねぇネズミ」
「ん?」
「そのワガママってその、今からでもいいの? それとも明日起きてからじゃないとだめ?」

なんとなく、紫苑の言いたいことはネズミに伝わっていた。けれどもその先にあるであろう望みを直接彼から聞きたい、とわからないフリをする。

「っ……今、すっごくネズミに触れたいんだけど」
「仕方ないなあ、これだから陛下は」

顔を少し赤らめながらも欲を伝えてくる紫苑に満足し、彼との距離を詰めるように座り直す。紅い瞳の中に映る自分は自分でも驚く程に嬉しそうな顔をしていた。隠すように紫苑との距離を縮め、そっと口付ける。

「誕生日おめでとう、紫苑」

 

 

 

fin.